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うさぎと暮らす野鳥好き

nasu00012010-02-12

▽せせせにニンジンを与える。日常業務。
八重山古謡を眺める(第2回「コイナゆんた」)
「コイナゆんた」という歌がある。
「ゆんた」というのは労働歌で軽快なものが多いのだが、これもまた軽快に脳内潜行して無限ループ化する曲だ。ホントは16〜17番ぐらいまであるのだが、頭の方だけ書くとこういう歌詞。

1 大嵩ぬ後なか から嵩ぬ 側なか
2 桑木ぬ 萌やーりどぅ 香ばさ木ぬ さしょうりどぅ
3 陽春どぅ なるだら 若夏どぅ いくだら
4 花や白 咲かろーり 実や青 好みょうり
5 こいなてる鳥ぬどぅ うりぬ実 食んでどぅ
6 何ゆさばどぅ 取りる 如何さばどぅ 抱がりる
 
浦原啓作『八重山ゆんた集』(1970)

この本は同僚Mから借りた。貴重本。5番は私の行っている三線教室では、

コイナてぃる鳥ぬどぅ コカルてぃる鳥ぬどぅ

と歌っている。
生物オタクだから、この「コイナという鳥が」、「コカルという鳥が」なんなのかが気になってしょうがない。コイナに定説はないようだが、コカルはアカショウビンのことらしい。今でもゴッカーロというらしいので、これは確定だろう。そしてコイナもアカショウビンだという話も聞いたが、コカルがアカショウビンならコイナもまたそれだ、というのは可能性としては低いような気がする。
石垣、西表にはクイナ類(シロハラクイナとかヒクイナとか……)がうじゃうじゃ歩いてたから、一瞬「コイナだからクイナのことじゃないのか」とも思ったが、言語的にいって、こちら(というのは東京のことだが)でコイナで、あちら(というのは沖縄のこと)でクイナ(もしくはクイヌ)、なら話としてはありうるが、逆はないような気がする。そこらへんはまあちょっとわからない。
ちなみにクイナ類は雑食で水辺にいて、テケテケ走る鳥。水の中にいるか走ってる姿をよく見る。ソコラへんで見る仲間はバンとオオバンぐらいか。アカショウビンは動物食で魚とか蛙とかを生け捕って食べるカワセミの仲間。普通、木にとまってる。
で、歌詞を見ると、春になり桑の木に花がつき、実がついてそれをコイナが食べている。桑の実なんてアカショウビンは食べないわけだが、その木にはとまる。一方クイナ類はなかなか木にはとまらないと思う。しかしクイナなら落ちた桑の実ぐらいは食べるんじゃないだろうか。
ところで、桑の実がなるのは梅雨時じゃなかったか。これ、「桑の季節になったからコイナが渡ってきた」と解釈するなら夏鳥(というのは夏、日本に渡ってくる鳥)であるアカショウビンは合致する、とも言えるかもしれない。アカショウビンは桑は食べないけど。クイナは種類によって渡るが留鳥(というのは渡らないでずっとそこにいる鳥のこと)のもいる。
しかし、そもそもコイナとコカルを別の鳥とするならば別々の生態が描かれていなくてはいけないわけだが、どうも歌詞は混乱している。これはつまりもともとふたつの鳥が描かれていたが、歌っているうちにごちゃごちゃ合体してしまったのだろう、とまあ、こんなところまで考えていた。もう材料がなくなったのでちょっと脳内休憩に入っていたのだが、『うすれゆく島嶼文化』を読んでもうちょっと進んだ。
もひとつ重要なことを書き忘れた。この鳥、歌詞の後の方で捕って焼いて食べちゃうんですよ。ふたりの子供に焼かせたら、ウチの子(本妻の子)の焼き鳥は苦焼きで臭い、外の子(妾の子)の焼き鳥はうま焼きで香ばしいって話で、最終的に、

フカヌファヤ ウチィナシ
ウチィヌファヤ フカナシ
 
大山了己『うすれゆく島嶼文化』(1995)

ということになる。この本では、「妾の子は実の子のように褒められ/実の子は反対にけなされた」と解釈しているが、どうみても「外の子をウチの子にして、ウチの子を外の子にした」としか私には読めない。前述の『八重山ゆんた集』にも「内の子は外の子となり、外の子は内の子という感じがした」と書いてある。「感じがした」! まあ簡単に入れ替えちゃうってのは道徳的に書きづらかったんだろう。だいたい「ゆんた」とか節歌にしても百年以上も前に作られてる曲ばっかりなので、今の道徳にあわないのが当たり前。気にする必要なんてないのに、やっぱりなんとなくいごこちが悪いのかもしれません。関係ないけど、でんさー節っていう歌に「人や親ままどぅ 妻夫や定みょうる 我どぅままになゆすや 犬とぅゆぬむぬ」ってのがあって、意味は、人ならば親のいうままにせよ、婚姻の相手は決まっているのだ、自分の勝手にするのは犬と同じだ、ってのがある。自由恋愛、犬のごとし。ならば犬で結構だ。まあ、こんな歌詞も実際に歌ってるのは聞いたことない。やっぱりなかなかむずかしいんだろう。
鳥の話にもどりますよ。捕って食べる、食べられるということも、ひとつ、重要な要素でしょう。
で、『うすれゆく島嶼文化』には「コイナという鳥は陽春の頃の夜「コーイコーイ」と鳴いて島の上空を渡る鳥で島の古老達はユガフトリと称している。はっきりしないがアジサシ類である。コカルはリュウキュウアカショウビンで食したかどうかは判然としない」とあっさり解答が書かれている。アジサシなのか! 島の古老達がいうならそれはほぼあたりだろう。いや、古老は「コーイコーイ」と言っただけで「アジサシである」などとはひとことも言っていない。でも、まあ一応、ほかになんの手がかりもないので、ここでは大山説を丸呑みしておく。アジサシ類なら旅鳥夏鳥なんで、陽春若夏に「来た来た!」っていうのも合致する(やっぱりこいつも桑は食べないけどな)。しかし、アジサシなんてアカショウビンよりもっと捕りにくく食べにくいような気がするのは気のせいだろうか。そもそもユガフ鳥(ユガフっていうのは世果報とも書いて豊作とか幸福な世の中とかそういう意味)を捕って喰わないんじゃないだろうか。「コイナゆんた」は石垣島の大川の歌らしいが、この本では小浜島ではアカショウビンを神の使いとして恐れている(p.136)、ともしているので、そういうこともあるかもしれない。
つまり、後の方で焼き鳥にされている鳥と、前で歌われている鳥は違う鳥だと思われます、ってことですよ。アカショウビンやアジサシを喰うっていうのはリアリティに欠ける。費用対効果が著しく悪い。またある種、霊鳥なのでそれは喰わないんじゃないだろうかということ。だから前半部は「霊鳥がうりずん若夏に渡ってきたよ」という縁起がいいねっていう歌で、後半部の「焼き鳥の歌」はまた別の話だ、ということにしよう。
で、「焼き鳥の歌」で焼いてる鳥は? っていうのも『うすれゆく島嶼文化』にそれっぽいのが載っていた。私はまだ聴いたことがないのだけれど「コイナじらば」という歌があって、歌詞はほぼ載っていないが歌の大意として、「朝早く起き、弓をもってガトゥリャーマ(カモ)とシィジィリャーマ(千鳥)を射止めて家の娘と嫁に焼かせてみたら、娘が焼いたのは苦くて食えないが、嫁の焼いたものは、香ばしくて美味であった」とある。ほぼあらすじがおんなじなので、この話が元の形だと考えていいと思う。「コイナじらば」は、大切な子供と同じように嫁も大切にせよ、みたいな教訓みたいなことらしい。ま、いくらうま焼きの嫁でも娘に取り替えることはできないからな。しかしこの男、うま焼きの娘がいた場合に、簡単に嫁と取り替えちゃいそうでちょっとこわい。

ということで、結論を繰り返すと、
1、コイナゆんたの前半と後半は別々の話。
2、前半は霊鳥(アジサシ、アカショウビン)が今年も帰ってきてめでたいめでたいというもの。
3、後半はコイナじらばを改変した、うま焼き、苦焼き、焼き鳥話。で、歌を合体したときにカモとチドリは欠落した。
4、結果、最初にでてくるアジサシ、アカショウビンを食っているかのような歌になってしまった。
ま、なんで、嫁を大切にしたいっていう話からフカヌファとウチィヌファを取り替える話になったのかはわからん。多分、ホントにそういう事件があったんじゃなかろうか。ということで、今日はおしまい。もうちょっと文章を整理したほうがわかりやすいが、これはもうこのままだな。
▽せせせにニンジンを与える。