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うさぎと暮らす野鳥好き

▽「沈黙」見てきた。窪塚キチジローが私にはちょっと、うーん。窪塚って芯が強そうに見えるじゃん。もっと弱い感じの人がよかったような気がするが、どうだろうか……。
▽イッセイ尾形が非常によかった。最近動いているイッセイを見てなかったので満足した。
▽いくつか論点があると思うが、やはり原作を読んだほうがいいと思って買ってきた。そのうち読む。
▽実際、キリスト教の感覚というのは日本人には非常に異質なもので、ホントのキリスト教を信仰している日本人など多分ほとんどいないのではないだろうか。
▽踏み絵という行為だって日本的感覚から言えば、「物理的には踏んだかも知れないが心の中で神を信じていれば神は許してくれるはず」とか思っちゃうかも知れないけど、キリスト教の神はそんなことは許さないわけだよ。
▽だから踏み絵というシステムが成立するわけで、「踏んでもあなたの心の中を見ています、大丈夫」みたいな神ではないのだ。そういう神だったら踏み絵というシステムは作動しない。
▽離婚とかもそう。相性が悪かろうが、DVで死ぬほどなぐられようが神はそんなことは絶対許さない。
▽踏んだら「枠」からは追い出される。神から見捨てられる。踏むことによって、他人の命が100人助けられようが自分の命が助かろうが、ゆるされない。踏んだらそれで終わりの神なのだ。
▽そういう「枠」の中で(あるいは「枠」の外側で)弱い人間は(当たり前だがすべての人間は弱い)どうなっちゃうのってのと。
▽終わりの方でイノウエ君が隠れ切支丹について「ああ、あれはもうキリスト教じゃないからどーでもいい」みたいなことを言うわけだが、そういう日本的変質、イノウエ語でいうところの沼、みたいなとこが大きいテーマのような……。
▽狐狸庵先生は日本的変質についてキリスト教を題材としてそういうことを考えたが、仏教だって同じだから。日本の仏教はほぼ仏教ではないので。ゆいいつ法然親鸞系の流れがある程度仏教としての矜持を保っているような気はするが。他はもう土着の謎の宗教。
▽謎の宗教に「おちぶれている」とは言わないが、完全に違うものになっている。
ちばぎんカップケンペスのセレモニーがあったようだ。
ケンペスのことは悲しかったが、ケンペスには悪いけれどせっつんが去ってしまったことのほうが何倍も悲しかった。ずっと30センチの範囲で暮らしていたのだから当たり前だけれど。
▽今日で2カ月目だ。
▽あれからせっつんのものは何も片付けられないでいる。
▽またいつかうさぎとともに暮らす日が来るのかもしれない。けれどもせっつんがあまりにもブリリアントに輝く小生命体だったから、新しく来たうさぎに「こんなのせっつんじゃない!」とか口走りそうで怖い。せっつんではないのだ。当たり前だ。
▽せっつん用のニンジンを切りつつ、来るかもしれない(来ないかも知れない)うさぎの名前を考えてみる。せっつんのときもせっつんが来る前から名前は決まっていた。
▽ぴよすぽよす。というのがその名前。
谷口ジロー亡くなったの? ほんとに!? 大ショックだ。ホントのホント!?
▽なんだか今日の日記は死の記述ばっかりになった。