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うさぎと暮らす野鳥好き

nasu00012013-05-23

▽せせせにニンジンを与える。
▽晴れ。
▽銀座へ。G8って、もう銀座じゃねーだろ。新橋だよ、ここ。銀座のGじゃなくって、ギリギリのGだろ。
▽「第2回奥村祭り」。個々のモノモノが頭に入りづらい。もう一回行ったほうがいいかも。ああ、一連のムーンライダースのジャケットもそうでしたか。しかし「初めて描いた水彩画」がもうすごいじゃん。どーなってんの?
▽しかし未だにムーンライダーかムーンライダーかはわからないという。中学1年の時に有声音とかなんとか習ったが、そもそも有声音ということがなんなのかわからなかったので、なんにもわからないままだった。英語教育というのは大体すべてがそういうものだった(つまり説明が〈私にとっては〉説明として成り立っていなかった)ので、なんにも身に付かなかった。自分で独自に学習するというモチベーションも興味もゼロだったしな。
▽よく考えれば、他の科目もそうだったが、他の科目(のごく一部)にはちょっとだけ独自のモチベーションというか興味が存在したので一応生きていけた。
▽てゆっか、ムーンライダースについては、彼等自身に表記のゆれがあるという話もある。
▽しかし、物語性というのはおもしろいものだよな。世界の出来事や人の生なんていうものに統一感・流れなど在るはずもないが、しかし、記憶として把握する際はそれが入り込む。極言すれば、人は物語としてしか物事を捕捉・把握・記憶できないのではないか。
▽もうひとつ。子供の方が分裂している。物語的な流れから解放されている。「今泣いた烏が……」的なそれとか。大人になるにつれて物語めく。年を取って「涙もろくなる」ってのは、物語のないところに勝手な物語を発生させて、勝手に感動的に納得するという現象。ナラティブここに極まれり。
▽そういう意味で言えば、「昔」はみんなが子供でみんな分裂していた。無理にいろいろ辻褄をあわせなくてもそれで平気だった。近現代になって〈子供〉が発明されたんだ、といわれるより、むしろ〈大人〉が発明されたといわれたほうがしっくりくる。
▽明らかにカツラだとわかるカツラをかぶっている。これは「カツラをかぶる」という意味への挑戦。
▽挑戦者はいついかなるときでも美しいと思っていたのは間違いか。
▽GPのライダーって東京と千葉の人ばっかりだよな。ばっかりってこともないが、結構な割合。
▽用字もそうだが、「オレの名前の国は国じゃなくて國なんだよね」、とかいうのももうやめたほうがいい。全部正字にしろとかそういうことをいいたいのではなく、どっちもおんなじだ、こだわるな、ということ。門っていう字を冂に点って略して書くヒトがいるでしょ。でも略してるだけで同じことをいいたいわけですよ。ホントいうとさっき言った「門っていう字を冂に点って略して書く」っていうと門が正しく「冂に点」が略してるっていうふうになるけど、ま、もちろんそれはひとつの見方なのだが、「門」も「冂に点」も同じ「モンというもやもやした意味」を指し示しているってことでどっちも同じっていう見方もできる。というか、根本的には「もやもやうかんでいるそのあたり」を指し示せればその形にはこだわらないというのが文字・活字というシステムだ。文字の形にこだわりすぎるとそのシステム自体が崩壊する。いろいろな略字をすべてその通りに再現するとか、ハネ、ハライの角度をその通りに再現するとか、じゃあ原稿に冂に点って書いてあるからそういう活字をつくりましょうかとか、あげくのはては誤字を活かすとか。そういうのは、もう、文字っていうシステムをまるでわかっていない渡「辺」一族だけにとどめておいたほうがいいんじゃないの。
▽せせせはニンジン、イチゴ(自家製)をもらった。日常業務。